第13号 2001.5.8
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★★★★★ 『 ユニヴァーサル・ノマド協会 』 ★★★★★
★★★★★ THE UNIVERSAL NOMAD ASSOCIATION, INC. ★★★★★
★★★★★ 2001.5.8.発行 Vol.13 ★★★★★
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■CONTENTS-------------------------------------------------------
[SIDE-A]
★(1)短期集中連載/コヨーテ + D.H.どろんぱ + がちゃぴん
「我々はなぜサンディエゴにいるのか?」
★(2)連載/コヨーテ
「カリフォルニアで生きて、死ぬには――To Live and Die in California」
★(3)連載/D.H.どろんぱ
「どろんぱの借りてきた猫のように」
★(4)連載/がちゃぴん
「がちゃぴんのミッドナイト・パニック」
★(5)新連載/ロードランナー2001
★(6)書評/コヨーテ
「書評:小沼純一『サウンド・エシックス――これからの「音楽文化論」
入門』(平凡社新書、2000年)」
★(7)書評/D.H.どろんぱ
「書評:阿部嘉昭『精解サブカルチャー講義』(河出書房、2001年)」
★(8)書評/がちゃぴん
「書評:レベッカ・レイ『ピュア』(グローブ・プレス、1998年)」
★(9)編集後記
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┃1┃短期集中連載「我々はなぜサンディエゴにいるのか?」(第1回)
┃ ┃ / コヨーテ + D.H.どろんぱ + がちゃぴん
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蔑んでくれ
僕は何処迄も真摯なのだ“至って普通さ”
いま群れ為す背中
お前が僕よりイッちゃっているのだ
狂っている―そうだろう?
――椎名林檎「メロウ」
(G)というわけで我々も半年ぶりの再会になりましたね。感慨深いです。
(コ)確かに「サンディエゴに遊びに来い」と言ってしまった記憶はおぼろげな
がらあるが、まさか本当に来るとは・・・。
(D)3人集まれば、幸せも3倍になりますね。昔の人はよく言ったものです。
(コ)おれの場合は、おれの幸せの3分の2をおまえらに食われている気がする。
その代わり、不幸も食費も3倍だ。
(G)何ですって?
(コ)いやまあ、無事に着いてよかったよ。無事に帰れるかどうかは保証のかぎ
りではないが・・・。
(D)あなたアメリカに来てから口が悪くなりましたね。
(コ)そうか? めちゃくちゃ開放的で伸び伸びしてるよ。カリフォルニアの穏
やかな海のように心は安らかだ。もう特に日本に未練もないし。
(D)カリフォルニアの海はめちゃくちゃ高波ですよ。「サーフィンUSA」ですか
ら。
(G)コヨさんには失うものは今さらないですしね。
(コ)おまえらもな。
(D)私はありますよ。
(コ)それは君がそう思っているだけだ。実際の価値は皆無だ。
(G)こうして青い空を見ているとどこまでも気分が穏やかになりますね。
(コ)おまえらが来るまではそうだったが、今は不条理感で一杯だ。
(D)何がですか?
(コ)大体な、社交辞令で、遊びに来いとは言ったが本当に来るやつがあるか?
さらに料理できない、英語できない、車の運転できない、1ヶ月以上滞在する
のに現金が二人合わせて100ドルしか持ってきてない、生活費未払い・・・。
ないない尽くしでアメリカで渡っていけると思ってるのか? アメリカを舐め
るにもほどがある。しかもどうしておれが貴様らの面倒をここまで見なければ
ならんのだ?
(D)帰国したらダイナミックにお支払いしますよ。
(G)それはかつて天文学的な負債をおった村西とおるさんがよく言っていた
セリフですね。
(コ)払う気がない、ってことじゃないか!
(G)まあまあ、きっとどこかでいいこともありますよ。
(コ)おまえが言うな。
(D)「アメリカを舐めるな」といいますが、そもそもアメリカなんてないん
ですから。
(コ)何?
(D)あなたが今いるのはサンディエゴであって、アメリカではないんですよ。ア
メリカとは幻想の中でのみ存在するんです。
(コ)スティーヴ・エリクソンも「アメリカ・1」「アメリカ・2」と作品の中
でその虚構性を強調していたが・・・。
(D)第一、この目の前の道で「ここはアメリカですか?」と聞いてみるといいで
すよ。たぶん、怪訝な顔をされるでしょうから。
(コ)当たり前だ。ただでさえ、メキシコとの国境が近いのに、そんなこと聞い
てみろ。不法移民と思われて通報されるぞ。これ以上、おれの負担を増やすな。
おまえらはおれの風呂を詰まらせにわざわざここまで来たのか? カリフォル
ニア・ギャルの金髪ならまだしも、男の髪でおれの風呂を詰まらせるな。寝て
る間に剃るぞ。剃毛好きのおれが腕によりをかけて丸坊主にしてやろう。
(D)そのように、常に理想と現実のギャップのせめぎあいこそが「アメリカ」な
のですよ。何せ理念の国ですから。
(コ)おれのアメリカ観はもっと桃源郷に近いはずだ。あまりわがままが過ぎる
とクスリで眠らせてダウンタウンの南の危険地帯か、ビーチで寝せるぞ。ある
いは永遠に眠ることになるかだ。どうせアメリカは広い。メキシコも隣だ。貴
様らが、アメリカ大陸の塵になるか、肥やしになるかしても誰もわかるまい。
(G)いつも女性に対してはそうやってクスリを使っているのですね?
(コ)人聞きの悪いことを言うな。おれはあらゆる女性に常にやさしいんだから。
(D)ただし、その女性があなたと打ち解けるまでの話ですが。
(コ)何か言ったか?
(D)いえ、まったく。ああ、今日もソファで寝るのか。
(G)私なんか押し入れですよ。
(コ)まだ安全が守られているだけありがたく思え。アメリカは銃社会だからな。
自分の身は自分で守らないと。"At your own risk"だ。いつまでもおれに頼ら
ずに、「やられる前にやれ」、の精神でサヴァイヴしていくように。有効な英
会話のフレーズを教えておこう。相手の目を見据えて、「なめるなよ」は、英
語で"Don't lick me." というから覚えておくように。目を逸らしたら負けだ
ぞ。
(G)なるほど、覚えておきましょう。
(コ)ただし日本に帰った瞬間に即刻忘れるように。おれの信用問題にかかわる。
(D)ということは、あなたが図書館で本とビデオを延滞し、罰金(fine)を宣告
され、"I'm fine. Thank you. And you?" と満面の笑みで返したことや、ある
店で"6 pieces"とオーダーする際に、「ろく ピーシズ」と発音したことなど
も忘れた方がよいですかね。
(コ)当たり前だろ。まちがっても他言するなよ。おまえらも自分たちで思って
いる以上に、「アメリカ化」されているんだから軽率な発言は慎むように。
(G)我々は「アメリカ化」などしてませんよ。
(コ)当初は、銃で撃たれるのを恐れて、左胸を押さえて歩いていたのに・・・、
しかも意味ない・・・、今やあらゆるカリフォルニア人よりもリラックスしや
がって。おれの家でこれ以上、くつろぐな。どっちが家主かわからん。
(G)我々がここに来てからと言うもの、みるみるあなたがやせ細っていくので、
気にはしてるんですが・・・。
(D)あるとき驚いたのは、起きた時にコヨさんのベッドを覗いたらいなかったの
で、早朝の散歩にでも行っているのか、と思ったら、毛布の隙間にいましたね。
(コ)おまえらのせいだろ。「エネルギー保存の法則」からいっても、おれに来
るべき栄養がおまえらにいっているだけだ。とにかく軽はずみな発言は控える
ように。物言いが直接的になってたりするから、ただでさえ日本にいたときか
ら口が軽いんだから。
(D)そういう抑圧的な発言自体が、直接的すぎるのでは?
(G)というわけで次回もまたサンディエゴからお届けします。
(コ)おまえら一体いつまでここにいるつもりだ? 知らないかもしれないが、
コヨーテ先輩は怒るとこわいんだぞ。でも『ライ麦畑』の主人公のような心境
も分らないでもない。あの作品の最後のように、「あんないんちきで不愉快な
連中ばかりでも、いなくなったら寂しく思い出す」こともあるかもしれないな。
(D)ラストでは主人公は精神病院にいるはずでは?
(G)いやいやそもそもケン・キージーの『郭公の巣の上で』(62)のように、
現代アメリカ社会全体が「精神病院」的なる世界なのですよ。
(コ)なるほど、フーコーもいうように、正気と狂気をわけること自体、曖昧な
ものだからね。フレデリック・ワイズマンのドキュメンタリー映画『チチカッ
ト・フォリーズ』も、精神病院のルポルタージュなんだけど、思うに正気と狂
気というのはだね・・・。
(D)さ、夜もふけてきたので寝ますよ。
(コ)とっくに朝だよ。ああ今日もまた朝から敗北感とともにはじまるのか。
(G)というわけで13号の巻頭特集「我々はなぜサンディエゴにいるのか?」の
収録をはじめましょうか? 我々も半年ぶりの再会になりましたね。感慨深い
です。
(コ)ん? 前にもうやんなかったっけ?
(D)(小声で)し! もう収録はじまってますよ。
(コ)そうか・・・。いや本当に、わざわざはるばる遠くから訪ねてくれて本当
にうれしいよ。ここ数日は君たちをあちこちサンディエゴの名所に案内してい
て、毎日が楽しくてね。すぐに一日終わってしまうんだ。ぼくがここにいる間
にはこれからも気軽に自分の家だと思って毎年来てほしいよ。
(G)(小声で)偽善者め。
(コ)え?
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┃2┃連載「カリフォルニアで生きて、死ぬには
┃ ┃ ――To Live and Die in California」/コヨーテ
┃ ┃ 【人間機械(マン=マシン)の明日[前編]の巻】
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アメリカの現代作家トマス・ピンチョンの処女作『V.』の中に、こんなエピ
ソードがある。主人公のひとりダメ男(シュレミール)のベニー・プロフェイ
ンは、「生命なきもの」に囲まれた現代のニューヨークでドジばかりを踏んで
いる人物で、ルンペン的な生活をしている。ある日プロフェインは、パートタ
イムの仕事として、「人類科学研究所」の夜警として雇われる。このハイテク
研究所のなかには、放射能が人体に及ぼす影響を測定するためのマネキン「シ
ュラウド」と、車の衝突時の衝撃を測るために破壊されるだけの実験用マネキ
ン「ショック」がある。ある夜プロフェインは、これらマネキンのひとつ「シ
ュラウド」と不思議な会話を交わすのだった(プロフェインの妄想による会話
とも読める部分)。
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研究所のなかにはプロフェインをのぞいては誰もいない。今夜はいずれの実験
もない様子。守衛所に戻る途中で、シュラウドの目の前で立ち止まった。
「どんな気分だい?」
きみらよりもマシさ。
「なんだって?」
きみこそ、なんだよ。将来、きみたちみんな、ぼくやショックのようになるの
さ。(ガイコツはプロフェインに向かってニヤリとしたように思えた。)
「核爆発や交通事故ばかりじゃないだろ、ほかにも道はあるさ。」
けれど、そのふたつが最も有力な候補だね。もし誰かがやらなければ、君たち
は自らの手でそうするさ。
「魂がないくせに、おめーはなんで話せるんだよ。」
[・・・中略・・・]
どういうわけか、プロフェインは読んでいたエロ小説『実存主義的保安官』
の話になかなか熱中できなかった。しばらくしてプロフェインは起き上がり、
シュラウドのところまで行った。「どういう意味だよ、いつかおれたちが、き
みやショックのようになるって?死ぬってことか?」
ぼくが死んでいるかい?死んでいるんだったら、そういうことだね。
「死んでいないっているなら、おめーは何なんだ?」
ほとんどきみらと同じさ。きみらはもうすぐそこまできているんだよ。
「何を言ってるか、さっぱりだな。」
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人間が機械になる将来。
1953年に出版されたこのトマス・ピンチョンの小説の背後にあるのは、ノー
バート・ウィーナーによるサイバネティクスの思想であることはよく指摘され
ることだ。サイバネティクスとはひとくちに言ってしまえば、1948年のウィー
ナーの記念碑的な著書『サイバネティクス――動物と機械における制御と通信』
のタイトルにあるように、生命体(有機物)の行動と通信機械(無機物)の関
係を情報の統御と通信構造を研究する学問として始まった。サイバネティクス
はもともと情報工学と生物学の領域をつなぐ脱領域的な学問であったこともあ
り、現在ではサイバネティクスの理論はさらなる広がりをみせ、情報科学やロ
ボティクス、人工知能、人工生命まで深く関連する学問となっている。ウィー
ナーのサイバネティクスにあった驚異的な観点は(本来ならば保留を幾つもつ
けるべきだろうが、誤解を恐れずに断言してしまうと)、人間を機械(マシン)
として了解するパースペクティヴを与えたことである。これは人間がまるで機
械のごく機能しているというメタフォリックな意味ではなく、そうした隠喩の
レベルを超えて、文字通り人間を機械(マシン)として了解することが可能に
なったことを意味する(繰り返すが、ここには限定と保留が必要で、科学者・
工学者によって各自がそれぞれの議論を展開し、意見の違いを見せているのが
現状である)。
アメリカ文学そしてサイバネティクスの話から始めてしまったが、その理由
は、先日4月20日(金曜日)に、カリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)で
行なわれたキャサリン・ヘイルズとのマーク・ポーリンの講演会&パネル・デ
ィスカッションに参加したからである。キャリン・ヘイルズはカリフォルニア
大学 (UCLA)の英文科の教授で、先のトマス・ピンチョンの研究家としても著
名な人物であり、もう一方のパネリスト、マーク・ポーリンは「サヴァイバル
・リサーチ・ラボラトリィーズ(SRL)」という、軍事機械を改造したマシンた
ちが繰り広げる破壊パフォーマンスを展開している集団の創始者でありディレ
クターである。マーク・ポーリンは1999年にNTT インターコミュニケーション
・センター(ICC)が多額の資金を用意してSRLを日本に招聘し、代々木公園にお
いてイベントを行ったので、彼の名を知っている人は多いかもしれない。マー
ク・ポーリンとSRLに関しては、興味深い点が多いので[後編]として次回の
『UNA』に譲るとして、今回は、理科系分野と文科系の分野の敷居をまたいで
活躍する「サイバネティクス文学研究家」キャサリン・ヘイルズに焦点を当て
たいとおもう。
UCSDで開かれたこのイベントが開催されるのを知ったのは他でもない、キャ
サリン・ヘイルズ本人からである。アメリカ文学と批評理論に精通した日本人
研究家のT氏が、カリフォルニア州立大学ロサンジェルス校(UCLA)において講
演を行うということを聞いた際、ロサンジェルスまで足をのばして講演会に参
加した。その際にT氏の講演会の世話人兼司会であったキャサリン・ヘイルズ
に会うことができた。彼女の名は、トマス・ピンチョンの批評や論文などでた
びたび目にして知っていたが、本人に会うのは初めてのことだった。ヘイルズ
は知的で簡潔な文体からは想い描いていた人物と違い、穏やかで優しい笑みを
浮かべながら話す方(「ケイト・スマイル」と名づけたい)で、講演後のディ
ナーにも誘って頂き、TK夫妻(T氏の妻でありよきパートナーであるK女史もSF
の分野において有名な方であり、興味深い考察と議論を続けている気鋭の学者)
とともに、UCLAの正門近くにある高級レストランで、美味しい食事をしながら
貴重な話をうかがうことができた。
先にも述べたが、キャサリン・ヘイルズ氏は「サイバネティクス文学研究家」
とでも呼びうる研究家で、人間とテクノロジーの関係を考察している人物。
もともとは大学で理学士の学士号、つづけて科学で理学修士号を取り、その後
文学に興味を持ち、ミシガン州立大学で文学の修士号、ロチェスター大学で英
文学の博士号を受け取っている。人文科学の分野と理科系の間の往来は、アメ
リカの大学のおいては珍しいことではないが、ヘイルズの場合は、理系の専門
課程で一通りの教育を受けた後に、再び文学の分野で学位を取り直していると
ころが、彼女の徹底した研究態度を示しているようだ。彼女は現代科学の分野
といくらかの現代文学が共通点を持っていることを早くから気づいており、異
なる文化間にいずれも精通した知識から、文系・理系をまたぐ研究家として現
在も意欲的に研究をつづけている。
彼女の英文学者としてのキャリアとしての活躍は、1984年に出版された『コ
ズミック・ウェブ』というタイトルの著書がある。この著書は、副題を「科学
フィールド・モデルと20世紀文学の戦略」といい、この中でヘイルズは20世
紀科学が証明したフィールド・セオリーと20世紀文学が提示した現実の認識方
法の類似性を研究している。フィールド・セオリーとは「場の理論」と訳され
ているが、19世紀の電気磁気学を背景に20世紀初頭の相対性理論が生み出した
物理学の一分野で、通常、異なる個体間の真空のなかにも力が働いており、た
とえば「重力」などがそうだが、ある物理的な存在物と存在物の空白のなかに
も「場」という物理的な内容が含まれており、そうした関係性を認識した物理
の学問領域である。フィールド・セオリーは、ハイゼンブルグとパウリという
二人の物理学者が「場の量子論」を定式化したように、その後、量子力学の分
野で大きな展開をみせ、多系体の量子力学として今では認識されている。それ
は「シュレディンガーの猫」でおなじみのものだが、それは物理的対象の「状
態」とその物理量の間には、「観測」という行為を媒体にする確率的な関係し
かなく、猫が死んでいるのか、生きているのか(状態)はフタを開けてみなけ
れば(観測)わからないのである。・・・・・・と、量子論の世界はややこし
いのだが、ヘイルズがこの本のなかで使っている「フィールド・セオリー」に
限定するなら、あらゆる存在は関係性の上になりたっており、ひとつの作用が
全く別の離れた場所にある存在に変化を及ぼす(空白の空間にも複雑な関係性
がある)、というものである。ヘイルズは、こうした世界観を踏まえて、すべ
てが目に見えなくともつながっている世界のメタファーをして『コズミック・
ウェブ』というタイトルをつけた、と述べている。
『コズミック・ウェブ』は大きくわけて二つの部分に分かれており、第一部
として、20世紀科学が提示したフィールド・セオリー(「場の理論」)の概説
とその重要性を説明し、ほぼ4分の3を占める、残りの紙面を現代作家と作品
の分析に当てている。具体的にチャプターが割かれている作家・作品をあげれ
ば、オバート・ピルシグ『禅とモーターサイクルの整備学』、D・H・ロレン
ス、ヴラジミール・ナボコフ『アーダ』、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの初期
短編、トマス・ピンチョン『重力の虹』である。ヘイルズによればこの順番で、
「フィールド・セオリー」に対して同種の思考を提示する作家から、現代科学
が示した世界観に抵抗しようとする作家の順番だということらしい。これらの
作家・作品はしばしば「ポストモダン小説」としてカテゴライズされるが、そ
の理由はこの著書が示しているように、20世紀科学が提示した現実(認識)
のモデルと「ポストモダン小説」が提示した現実の了解の仕方が(その限界を
含めて)とても似通っているからである。しかし、これらの現代小説が必ずし
も現代の科学的な転回から引き起こされたのではなく、むしろヘイルズもいう
ように「文学は、現実の複雑さと曖昧さに対する想像的反応であり、(そうし
た文学的な営みは科学の)フィールド・モデルのなかに暗示されていた」(10)
としている。つまり、文学的な営みと科学的な営みが最終的に非常に似通った
場所に行き着いている、ということである。これ自体は驚くべきことではない
が、近代以降科学そしてテクノロジーが文学的な想像力といったものが袂を分
かち、別の道を歩んできた長い歴史を考えると、非常にクリティカルな意味を
もってくる、といえるだろう。
ヘイルズの最新の著作は『いかにして私たちはポストヒューマンとなったか』
と題されており、サブタイトルには「サイバネティクスにおけるヴァーチャル
・ボディ、文学、そして情報科学」とある。ヘイルズはこの著書の「プロロー
グ」を1950年のアラン・チューリングの有名な論文から説き始めている。念の
ために書いておくと、アラン・チューリングとは、1936年に考案した「チュー
リング・マシン」という抽象計算機械で有名になった数学者で、その機械は無
限の長さのテープと読み書きできるヘッド部、そして制御部から成っており、
記号列を変換しながら一定の計算を遂行することができる仮想機械である。現
在のコンピュータの基礎を作り上げたチューリングは後に「チューリング・テ
スト」と呼ばれる、人工知能研究の発端ともなったテストも考案している。そ
れがヘイルズの著書の冒頭にも使われている、コンピュータを使ったAI(人工
知能)に関するテストで、以下のような内容を持つものである。
「あなたは部屋のなかにいて、2台のコンピュータ・ターミナルの前にいる。
画面には表示されているのは、別の部屋から(つまりあなたには見えないとこ
ろから)繋がれたコンピュータから入力された反応が表示される。あなたのす
るべきことは、画面に表示される反応をみて、あなたの見えないところでコン
ピュータを操作しているのが誰なのかを当てることだ。ここで操作しているの
は、男/女/コンピュータのいずれかである。そのためにひとつだけヒントが
ある。それは、一方のコンピュータからの入力はあなたの質問につねに誠実に
答えるようにできている。もう一方の入力はつねにあなたを騙そうと努めてい
る。もしあながたが、コンピュータの画面から、相手判断できないとしたら、
コンピュータが人間と同様の知能を持っているといっていいのではないか?」
以上が、50年代半ばにアラン・チューリングが主張したことである。この「
チューリング・テスト」はその行動主義的な側面が批判の対象になり、また現
在ではそのやや厳密性を欠いた方法論の未熟さも指摘されているのだが、人工
知能研究の基盤を作った人物のひとりとして今では歴史に残る人物となってい
る。
キャサリン・ヘイルズは、チューリングを引用したこの文脈でジェンダーの
問題にも取り組んでいるが、ここではそれらの問題はとりあえず棚上げしてお
こう。むしろ、ヘイルズが「プロローグ」で示唆する重要なことは、テクノロ
ジーが浸透した現在に暮す人間の存在条件である。この「チューリング・テス
ト」に言及しながら、ヘイルズは、この試験に「あなた」が組み込まれている
時点で、あるサイバネティックなシステムに組み込まれていると言う事実であ
る、という。この試験において「あなた」は、コンピュータからの情報を得て、
そしてフィードバックを入力する。そうしたやりとりにおいて、「あなた」は
コンピュータ・ターミナルのスクリーンに映る人間またはコンピュータの作り
上げた記号を操作する主体となっているのであり、また、この電子的な環境の
中で、スクリーンの前にいるあなたの生身の肉体(身体)とコンピュータの言
語と記号を通して打ち立てられた身体性の間の断絶が曖昧になっていく。そし
て、コンピュータ・テクノロジーに接続されたシステム、つまりサイバネティ
ックなシステムのなかで生身の肉体(身体)と構成された身体は、ひとつの連
結状態になり、ゆえにあなたは、この試験のなかで「サイボーグ」となってい
る、という。
いささか突飛な考えと思われるかもしれないが、ヘイルズが提示している視
点は現在のテクノロジー化された現代社会と人間存在を考える上で、とても重
要な意味を持っている。よく言われるように、私たちはすでに多くのコンピュ
ータ・テクノロジーに囲まれて暮している。それは単にコンピュータ・ターミ
ナルに向かったときだけではない。ちょっと身の回りのものを見回してみただ
けでも、オーディオ、TV、ビデオ、電子レンジ、冷蔵庫など家庭用電子機器な
ど部屋の中から、電車の運転装置や自動車の制御装置、エレベーターの動作装
置など公共の場にさえマイクロ・コンピュータが組み込まれ、人間の補助や操
作(統御)に貢献している。人々はこれらの電子機器が発する情報を得て、ボ
タンを押したり、装置なりを操作(=フィードバック)したりする。この時点
で私たちはコンピュータを通して発せられた記号を操作する主体であり、すで
にヘイルズがいうサイバネティクなシステムのなかで生きる「ポストヒューマ
ン」になっている、といえるのだ。
こうした人間存在をサイバネティックなシステム系にある存在としてみる観
点は、アカデミックな文学研究がこれまでほとんど無視されてきたSFの領域で
先んじて開拓されてきた。たとえば、ウィリアム・ギブスンやブルース・スタ
ーリング、J・G・バラードを初めとする、サイバネティスをフィクションに応
用したサイバー・パンクSFや、リドリー・スコット『ブレード・ランナー』や
デイヴィッド・クローネンバーグの幾らかのSF映画などで「サイボーグ」とし
ての人間主体は扱われてきた。キャサリン・ヘイルズの研究が重要な意味を持
つのは、そうした「エンターテイメント」としてアカデミズムが切り離してき
たSF文学を再評価し、シリアスな文脈で扱おうとしていることだ。この仕事は
理系と文系を跨いで学んできた彼女の研究としてふさわしいものだろう。
こうした情報工学の視点からみた「人間(=ポストヒューマン)」は、文学・
文化批評理論の分野で展開されてきた概念とも軌を一にしている。たとえば、
構造主義、ポスト構造主義が示した「人間」は、それまでの伝統的な人間(観)
――それは、合理的で自律的、そして創造的な個体――ではなく、社会的・
文化的な構築物で、ディスコースに支配されている存在としてものとして捉え
られていた(別の議論ではそれまでの「人間」観それ自体が社会的構築物であ
る、とされた)。つまり、「人間」とは様々な社会的・文化的な政治力から作
り出された存在であり、18世紀的な「人間(観)」が大きく否定されたのだっ
た。幾つかの例をあげれば、ジャック・ラカンの「夢機械」の概念やジル・ド
ゥルーズ=フェリックス・ガタリの「戦争機械」という概念のように、「人間」
を機械(マシン)として捉えなおそうとする現代思想は多い。構造主義、ポス
ト構造主義的「人間」と、情報と統御の観点で組み立てられた機械(マシン)
は、パラレルな関係で「啓蒙の時代」以来引き継がれてきた「人間」を改変
(=改造)させてきたのだ。
キャサリン・ヘイルズは『いかにして私たちはポストヒューマンとなったか』
の「結論」において、ヘイルズは「ポストヒューマンになることは、恐れと快
楽を同時に生み出す」(283)と述べている。人間が変化しマシンへ近づくこと
は確かに「恐れ」を含むものであり、いつの日か人間が知的なマシンに取って
代わられてしまうかもしれないという恐怖を呼び起こす。これは決してSF的な
話でも空想的な物語でもない。すでに工場のオートメーション化のように人間
の場は多くマシンに取って代わられている(ラッダイト運動が起こった産業革
命の時代を思い起こしてもよい)。それでも、いまだ機械(マシン)を操作す
るのは人間であり、主権は人間にある、と反論できるかもしれない。しかし、
ヘイルズによれば、すでにアメリカの戦闘機の幾つかはコンピュータ制御にな
っており、人間が判断したものを戦闘機に搭載された3台のコンピュータが判
断し、そのうち2台が合意をだすことで、戦闘機を操縦していくという。この
エピソードが示すのは、操作主としての人間の終焉であり、マシンと人間が一
体化した操作主体(サイボーグ的?)の存在である。しかし、もう一方で、ポ
ストヒューマンという視点は、近代以降縛ってきた人間観をズラし、新しい考
え方を生み出すという快楽をも呼び起こすものである、という。ヘイルズはこ
の可能性を模索する立場にいるが、この文脈において彼女が強調するのは、ポ
ストヒューマンは決してアンチ・ヒューマンではない、ということである。あ
くまでポストヒューマンが目指すのは、加速度的に進展する現代テクノロジー
が人間存在に与える影響を分析しながら、近代の「人間(観)」が見過ごして
きた部分を探求することにあるのだ。
いささかラフなまとめになるが、つまるところ文科系の分野でも理系分野で
も、現代理論の展開のなかで、人間と機械(マシン)はそれぞれが歩み寄って
きており――つまり、人間はますます機械らしくなり、機械はますます人間ら
しくなっており――現在では、その間の境界線がますます曖昧になってきてい
るということだ。こうした状況下において、伝統的な「人間(観)」の最後の
よりどころは、「自然」に最も近いとされる「身体(ボディー)」である。ゆ
えに、現在では文系・理系の各分野で「身体論」がこれまでになくホットな話
題となっている。(詳しくは次回の[後編]にゆずるが、たとえば理科系の分野
ではサイバー・スペースにおけるヴァーチャル・ボディ[消えゆく身体]、文系
の分野ではデカルト的な近代の二元論的心身問題を問い直す立場[内部でもあり
同時に外部でもある両義的な身体]など)。
キャサリン・ヘイルズの学問的な解説と、科学的な概念の説明が多くなって
しまったが、最後にUCSDで行われたキャサリン・ヘイルズの講演をまとめてお
きたい。ヘイルズの講演は自らのラップトップ・パソコンをヴィデオ・スクリ
ーンに投影する装置(マシン)に繋ぎ、マイクロソフトのプレゼンテーション
用ソフト「パワー・ポイント」を使いながら、豊富なヴィジュアル・イメージ
とテクストの引用で織り成されたもので、主にスタニワフム・レムの『マスク』
とアンドレイ・タルコフスキー『惑星ソラリス』(1972)を、ジャック・ラカン
の「夢機械」の概念で読み解くという刺激的なものだった。聴衆からの質問に
対しては、「ケイト・スマイル」を浮かべながらも、とてもスマートにそして
丁寧に答えていた(難しい術語をやさしく言い換えながら、すらすらと答える
姿ははっきり言ってカッコよかった!)。そして、講演後のパネル・ディスカ
ッションにおいて、「英文学部というのは、テクノフォビア――テクノロジー
に対して嫌悪感を示すだけでなく、研究方法・態度にさえテクノロジーを導入
することを嫌う――が蔓延しているところなので、そういった中にテクノロジ
ーに対する関心を高めていきたい」と研究意欲を述べていたのが最も印象的だ
った。というのも、SFの分野だけでなく、冒頭に引用したトマス・ピンチョン
やドン・デリーロなどのシリアスな作家は、すでに意識的にテクノロジー化さ
れた現代社会と人間を描く作品を書きつづけているからだ。
[後編]へつづく。
<参考文献>
Crevier, Daniel. AI: The Tumultuous History of the Search for
Artificial Intelligence. New York: BasicBooks, 1993
Hayles, Katherine. Cosmic Web: Scientific Field Models And Literary
Strategies in the Twentieth Century. Cornell U. P., 1984.
---, How We Became Posthuman: Virtual Bodies in Cybernetics,
Literature, and Informatics. U of Chicago P., 1999
Pynchon, Thomas. V. Philadelphia: J. B. Lippincott, 1963.
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┃3┃連載「どろんぱの借りてきた猫のように」/D.H.どろんぱ(第14回)
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「テレビ時代のノスタルジア」
というわけでアメリカでのテレビ番組をとても楽しみにしていたのだが、あ
いにく我が同居人はケーブルテレビに加入していなかったので、地上波の番組
のみしか観ることができない。地上波のテレビ番組は、おそろしいことに、平
日はほぼ毎日同じ番組が、ドラマではなく、ヴァラエティ番組にもかかわらず、
放映されていたりする。ちょっと前に放映されたばかりの番組の再放送も、頻
繁に放映されており、衛生チャンネルの番組編成のような趣きだ。
とりわけシチュエーション・コメディ、ソープ・オペラに代表されるドラマ
は、よく指摘されるように、世代を超えた連帯を可能にするようだ。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(85)が、80年代から1955年に時間を
遡る際にも、50年代のテレビドラマが80年代にも再放送されている事実がキー
になっていた。デビット・リンチ『ブルーベルベット』においては、古いテレ
ビドラマが放映されているお茶の間の光景が、80年代アメリカの暗部を対照的
にはっきりと映し出す効果をあげている。『カラー・オヴ・ハート』
(Pleasantville, 1998)にしたところで、現代から50年代のテレビドラマの
世界に入りこむというSF的な設定は、日本のような土壌では成立しえないの
はもっともだ。
もちろん現代アメリカが50年代のテレビ時代の草創期を、切実に希求するの
は、強いノスタルジアもさることながら、「古きよきアメリカ」をもう一度や
り直したいという願望ならではなのかもしれない。まだベトナム戦争も体験し
ていなかったあの時代へ、と。
さて、日本においても、各テレビ局がBS放送を開始してすでに番組編成も
整いつつある頃合いだ。とにかく新しい番組を新しい装いで放送しつづけなけ
ればならないプレッシャーを抱える、地上波の編成とは異なって、日本のテレ
ビ放送50年の遺産を発揮すべき時が来たと言えるだろう。しかし現状は、様
々な権利の問題もからみあって、再放送の中止を余儀なくさせるケースが相次
いでいるそうだ。ましてや70年代のNHK少年少女SFドラマシリーズのよう
にオリジナルのビデオテープも保存しておらず、今年になってから熱烈なファ
ンにより、音声だけが復元されたなどという事態もある。横浜にある放送ライ
ブラリーは貴重な施設であるが、まだまだ映像資料の収集という観点からはも
のたりなさは否めない。もちろん保存場所や予算の面からも、何人も責めるこ
とはできないのはむろんであるが。賞をとった番組を中心に、放送ライブラリ
ーではおよそ4500本のテレビ番組、1000本余りのラジオ番組が収蔵さ
れているとのことである。
荒俣宏氏の『TV博物誌』(小学館、97)では、このあたりの事情について、
専門家(NHK放送博物館の橋本氏談話)のわかりやすい説明を紹介してくれ
ている。
「実は、公的にテレビの放送内容を記録保存することは、かなり困難なんです
よ。というのは、著作権法のたてまえからいうと、テレビ番組は放送後に消さ
なければいけないことになっているからです。
まあ、映画の場合には、映画会社がフィルムを貸し、その賃貸料から出演者
や演出家に何パーセントかずつギャランティをわたす、という形式がよく発達
しているわけですね。
だから、映画は貸出用にフィルムのストックを持っていて、これが結果的に
保存の役割も果たす。もちろん、オリジナルも厳重に保管されてますしね。
ところが、テレビはそうなっていません。一回放送して、再放送までは認め
られています。ですが、さっきもいいましたように、著作権法の上では、テレ
ビ放送は即時電子メディアですから、そこに一回流したら終わりなんです。
もしもあとで記録を残せば、それは事実上の違反行為になるんですよね。今
は文化財として公的記録を残してますが、本来は記録が保存されているほうが
おかしいんです」(『TV博物誌』 224ー25頁)
かくして、再放送を企画しても、「出演者、製作者、構成作家、脚本家など
の権利者と交渉し、承諾をえなければ」ならず、現実の多くの作品が再び陽の
目を見ることのないまま埋もれている。
確かに、放映当時、「記録された作品」という意識は作り手には皆無であっ
たであろうから、テレビ番組の性質上、一回だけの刹那性こそが本来ふさわし
いのかもしれない。
草創期のテレビ番組内で仕事をしていたことで知られるゴア・ヴィダル(小
説家・政治家)が自身の回想録『パリンプセスト』(95)で、生放送時代のテ
レビドラマ作りをふりかえったり、小林信彦(作家)が『テレビの黄金時代』
(83)などの読本で思い入れのあるテレビ番組(「シャボン玉ホリデー」)を回
想したり、という形の方が、そして博物学の荒俣宏氏による『TV博物誌』の
ように、喪われた時代を「博物学」として追憶する方があるべき姿ではあるの
だろう。
とはいえ、アメリカの大学図書館で、3巻本の「ソフトドリンクのCM集
60・70・80年代」を見るにつけても、時代を如実に反映させるテレビだ
からこそ時代を超えて一望しえたらどれだけ魅力的か、という想いはつきない。
中高年層が支えるテレビドラマ『渡る世間は鬼ばかり』(90〜 現在「パー
ト5」放映中)の一人勝ち状態も、テレビドラマが中高年から奪われてしまっ
たがゆえの事態ではないか? テレビドラマは再放送も含めてもっと多様でい
いし、多様でありながらも、あらゆる層をつなぎうるような可能性を秘めた媒
体であってほしい。
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┃4┃連載「がちゃぴんのミッドナイト・パニック」/がちゃぴん(第13回)
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「23年目の決断」
Good night Sweet heart
Good night Oh my baby
窓の外に光ってる 星の物語
夜空に 浮かぶ 唄を
君の為に
一つ一つ 唄ってあげよう
―― 大森隆志
「グッドナイト・スウィートハート」(1982)
何と、サザンオールスターズのギタリスト、大森隆志が脱退してしまった。
ここ数日、一部の週刊誌を騒がしているように、デリケートな問題も絡むため、
一層感慨も複雑である。
実は桑田佳祐のソロ・シングル「波乗りジョニー」を聴いたとき、サザンオ
ールスターズは彼の中でもう必要ないのではないか、と正直思った。桑田がソ
ロ活動を行う時、偶然かどうかははっきりは言えないが、それはいつもバンド
の分岐点であった。無意識か意識的にか、これ以上バンドだけを続けていたら
煮詰まるという時に、彼は「何でもできるはず」のテーマパークにも例えられ
るサザンオールスターズですらできないアプローチを、あえて施してきた。
それがたとえば81年のビクターホイールズでの洋楽のコピーであり、86年の
クワタバンドでの全英語詞のアルバムであり、88年の小林武史をプロデューサ
ーに起用しての過剰な装飾による曲作りであったり、91年のアコースティック
・レヴォリューション、94年の『孤独の太陽』での、一転してシンプルな音作
りだったりしてきたわけだ。
その点、「波乗りジョニー」では、原由子も参加しており、曲の感じもサザ
ンオールスターズを感じさせる、非常に若々しい作りが特徴だ。「TSUNAMI」
のヒット以降、再び、大御所感を漂わせつつある彼らにとって、「若々しさ」
のみが今のサザンにできないことであったとしたらなおさら寂しい。それ以前
に昨年からの大森隆志の長期休養と、その理由について一部の雑誌媒体では憶
測がなされていたのを知っていただけに、サザンオールスターズを存続させる
か否かの新たな分岐点に桑田佳祐が立たされていることを、「波乗りジョニー」
から深読みしてしまったわけだ。
くりかえしになるが、どうして「波乗りジョニー」のような軽快なポップ・
チューンがソロでなされなければならないか、は私にとって気になりつづけて
いた。
私の世代においては、ほぼ幼年期の人格形成を「サザンオールスターズ」と
高橋留美子の『うる星やつら』の二つで説明できてしまうほど(サザンオール
スターズは78年6月「勝手にシンドバッド」で、高橋留美子は78年6月付の少
年サンデーにて「勝手なやつら」でデビュー)、その確固たる影響力は否定す
べくもないが、すでにデビューから23年あまりの歳月が流れている。その間、
高橋留美子にしても、第一線を退くことなく、作品を発表し続けている事実に
は、桑田、高橋、共にA型である事実を差し引いても、驚嘆させられる。
他のあらゆるバンドがたどってきたように、20年を超えてバンドを存続し
続けるというのはどういうことなのだろうか?
たとえば、ローリング・ストーンズは、今年の10月にミック・ジャガーのソ
ロ・アルバムの発表が予定されており、ドラムのチャーリー・ワッツもソロで
すでに秋の来日が決定されている。そして来年の2002年に新作アルバムの準備
を行うことが決定し、2003年度の「デビュー40周年」に向けて大がかりなプ
ロジェクトが動き出していることが伝えられたばかりだ。
ローリング・ストーンズもまた長年、「バンドを続けなければならない」の
か、「バンドを続けないわけにはいかない」のか、とにかく抑圧に近いほどの
結束を強いられてきたことで知られている。何人かの脱退者も存在し、とりわ
け90年代にはそれぞれのメンバーが思い思いのソロ活動を節目毎に展開してい
る事実を考えても、バンドが果たして正常な状態で存続しているのかどうかは
難しいところではある。しかし、それぞれの好きな音楽を大事にしているソロ
活動にかつてのような気負いもなく、いい形でバンドでの音に最終的に結実さ
せている。本来、嗜好の異なるメンバーが、ローリング・ストーンズというバ
ンドに集まることで、もたらされる音楽性に、単なるブランド以上の価値を、
本人たちもファンも認めているのは何よりも素晴らしいことであろう。
日本では長らく、サザンオールスターズとも時代を共に活動した、RCサク
セションが1970年にデビューしていることから、古参の位置にありつづけた。
とはいえハード・フォーク時代にはほとんど一人に近い状態で活動を余儀なく
されたことに加えて、あのRCですら20年の歳月を超えられなかった事実は
重い。ライブ・バンドでならしただけあって、バンド・メンバーの演奏力の確
かさには今もなお定評がある。中心メンバーの忌野清志郎、仲井戸麗市はその
後もコンスタントにめいめいの音楽活動を続けており、ベース、ドラムセクシ
ョンも時々、近況が伝えられる。唯一、キーボード奏者の消息が不明なのが残
念だが、「バンドを続けなければならない」呪縛から逃れることで自由になっ
た例になりつつある。忌野清志郎の遍歴にあるように、くりかえし彼は今もな
おバンドという形態にこだわり続ける。そしてここ10年、RCに匹敵するだけ
の水準には到達しえていない印象はぬぐいきれないが、彼の創作意欲はまった
く衰えていないどころか、RC時代よりも作品リリースのペースは早い。
RCサクセションがライブ・バンドとしてライブ盤を多く残しているのに比
して、サザンオールスターズは今に至るまで公式のライブ盤を1枚も持たず、
ショー化されたライブを収めたビデオ盤こそ多く存在するが、デビュー時から
一貫して「学生バンド」のイメージを大事にしてきた。
とりわけ大森隆志の奏でるギターの音は、スタジオ・ミュージシャンでは到
底出しえない、チープさがとても心地よかった。けなしているのではない。
サザンでヴォーカルをとった「ラブ・シック・チキン」(80)、インストルメ
ンタルの「なんば君の事務所」(84)、ソロでの『真夜中のギターボーイ』
(82)、那須雪絵のマンガ『ここはグリーンウッド』のイメージアルバム(90)
でのプロデュースといい、ポップさとチープさこそが彼の最大の魅力であった。
プロデュースでも、135やターボーズ・プロジェクト(共に86)などでなか
なか冴えを見せている。
もしかしたら意外に知られていないことなのかもしれないが、原由子はむろ
んのこと、全員のメンバーがサザン以外でのソロ活動を残している。そして20
年以上の遍歴の中で、原由子の産休はもとより、メンバーの休養もこれまでま
ったくなかったわけではない。
サザンオールスターズの桑田佳祐はごく初期の段階から、彼の愛するビート
ルズを例に、「バンドはいつ解散してもおかしくない」と言いきってきた。そ
していつ解散してもおかしくないからこそ、「解散」に行きつく前に「解散」
させない方策を選び取ってきた。いつからか、メンバーは皆、バンドを「家族
(ファミリー)」と称するようになる。初期に見られた、アルバム内での各メ
ンバーによる楽曲、そして桑田夫妻以外のソロ活動もめっきり見られなくなっ
た。
そして今回も、メンバーの脱退という決断でもって、バンドの存続を選ぶこ
とになった。今のメンバーよりも、演奏能力の高いミュージシャンはいくらで
もいるだろう。傍目には「波乗りジョニー」もサザンの楽曲も、区別はつかな
い者もいるかもしれない。
ローリング・ストーンズが湾岸戦争を揶揄した曲(「ハイワイアー」91)で、
祖国イギリスの放送局から締め出しをくらったり、忌野清志郎が今なお「反権
力」にこだわりを示したりするようなことは、サザンにはあるまい。
沖縄を歌にしても、社会状況を鋭く歌っても、彼らは今後も、「国民バンド」
であり続けるのだろう。そしてそれは前人未到の道だ。
またしてもバンドを存続させることを選んだ桑田佳祐にはますます重い負担
になるのではないか。もう「解散」という方策はないのではないか。歌いつづ
ける力があるかぎり、バンドは続いていくつもりなのだろう。どこまで走りつ
づけることができるだろうか? しかし桑田佳祐であれば、単なる昔の曲をい
つまでも歌いつづけるだけを要求されるくらいなら、かねてからの宿願のよう
に、ビートルズをカヴァーすることをむしろ選ぶのだろう。
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┃5┃新連載<予告>:「電影天国への階段」/ ロードランナー
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本コーナーは、映画学の世界を駆け出したロードランナー氏が、その学びつ
つある知識と素養をもとに、フィルム・スタディーズの理論とその実践をやさ
しく解説してくれるものです。理論編はあまり難解にならないよう、あくまで
初学者に向けて書かれる予定です。実践編は主に映画評になると思いますが、
こちらも決して複雑で知識を敷き詰めたものではなく、映画を観る際に知って
おくとより映画が楽しめるような様々な視点や角度を提示してくれるとのこと
です。
原稿が届いていない現在、どのような原稿があがってくるのか分りませんが、
名前の通り、そのフットワークの軽さでシネマパラダイスへの階段を駆けてい
ってくれるでしょう。(【UNA】編集部)
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┃6┃書評:小沼純一『サウンド・エシックス――これからの「音楽文化論」
┃ ┃ 入門』(平凡社新書、2000年)/ コヨーテ
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音楽という言葉を聞いて、人はどんな音楽を思うかべるのだろうか?
ある人は厳かなクラシックの曲を思うかべるかもしれないし、またある人は
カラオケで歌うポップ・ソングを思い浮かべるかもしれない。また、幼き頃に
よく口ずさんだり両親から聴かされたりした、わらべ歌を思い出す人もいれば、
小学校で習った唱歌を思い浮かべる人もいるかもしれない。こうした音楽はジ
ャンルが異なるとはいえ、広く一般に「音楽」として考えられている、といっ
て差し支えないだろう。
しかし、もっと広い意味での音楽がある。ちょっと注意して周りの音に耳を
澄ましてみよう。一聴して、音楽とは認識されないところにもいろんな音楽が
あふれていることに気づくはずだ。テレビのコマーシャルには、ほとんどと言
ってよいほど音楽とともに放送されているし、街に足を運んだときさえ、BGM
としてどこからか音楽が聞えてくる。東京の多くの路線では、電車がホームに
入ってくるときやドアが閉じる時に音楽が流れてくるし、携帯の着メロなどは
日本全国において場所を選ばす耳にすることができるだろう。いつもどこかで
音楽は鳴っているし、否応なしに、ぼくらの耳に入ってくる。ぼくたちは音楽
に囲まれた社会に暮しているのだ。
小沼氏が本著書で繰り広げる音楽論は限りなく幅広い射程を持っている。小
沼氏が語る音楽は、音という個々に存在するものが、ふと偶然に連続性を持っ
たときに作り出した音の連なりさえ、音楽として聴こうとする柔軟性を持った
思想なのである。
けれども、携帯の「着メロ」のような電子音まで音楽と呼んでいいのだろう
か?音楽の基本要素であるメロディー、リズム、ハーモニーは一応すべて備え
ているように思われる。だが、しかしそうした音のつらなりは、単に人に注意
を呼びかけるものにすぎないのではないだろうか?他人の携帯の「着メロ」を
聞いて、不快な思いをする人も多いはずだ。それはつまり「音」を「楽」しめ
ないことを意味している。それでも音楽なんだろうか?
こうした問いに対して、小沼氏は完全な解答を与えることはしない。けれど
も、この世にあふれる様々な音楽について、次のように述べている。
「音楽を無条件に肯定すること。他者の音楽を肯定すること。
そんなのがあるかもしれないがとか、ご勝手にというのではなく、人がどう
いうものを音楽として感じているのかを知る、好奇心を持つ、そして触れてみ
たうえで、自分がわからないし、認められなくても、肯定すること。ここが大
切です。認められなくても、というところが。罵倒したっていいのです。しか
し肯定するということ。
好き/嫌いではない――それが世界を認めるということです。もしかしたら
面白いと思ったり好きなったりするかもしれない。そのために知ることは必要
です。音楽は他者を知る上でも、他のもの以上に積極的なツール/メディアな
のです。
じつは、音楽が細分化され、ジャンル別にされているというのは、マーケテ
ィング的なことだけでなく、一種の囲い込みであり分散化ではないのでしょう
か。ひとつの中に安住していればそれでいい。メジャーはマイナーを抑圧して
しまいます。そうしたシステムを緩やかに揺るがすためにも、異なった音楽が、
複数の音楽があることに興味を持つことは意味があるのです。この演奏がどう
だとか、あの演奏には「音楽」がないとか、どの曲がひどいだとか、そういっ
たこととは、この無条件の肯定の「後」に発されればいいでしょう」(36-37)。
この言葉に対して全面的に賛同の意を表したいと思う。というのも、この文
章の中に、著者の音楽に対して寛容な思想がはっきりうかがわれるからだ。そ
れはまた、単に様々に異なるジャンルの「音楽」を聞くというだけでなく、他
者に対して呼びかける「場」としての音楽、つまり他者に対して開かれている
「ツール/メディア」としての「音楽」を称揚しているからだ。この点で、こ
の本は「音楽」に興味のある人ばかりでなく、現代の「音楽化した社会」に暮
す、あらゆる人に向けて語りかけている本といえるだろう(特に音楽評論に関
して興味のある方は必携の書と断言してもいい)。
「音楽文化論」と副題にあるが、この著書は、単に「音楽」を文化のレベル
と絡め合わせたものではない。ここで扱われているのは「音楽」のメディアの
問題(その場の演奏による生の音楽からカセットテープ、レコード、CD、そし
てMP3というマテリアリティなき情報化した音楽メディアの問題)、資本主義
社会下における「音楽」の消費の問題(マスメディアが操作する音楽の嗜好や
「音楽」消費の問題)、音楽と身体の関係、音楽のプロフェッショナルとア
マチュアの問題、視覚メディア(映画、テレビなど)と音楽の関係、音楽を発
する者(クリエイトする者)とそれを受け取る者(オーディエンス)との問題、
音楽と生命の問題など脱領域的な視野からそれぞれ「音楽」を問いかけたもの
となっている。
この本の最大の魅力は、こうした音楽に関するあらゆる次元の論考を、著者
が大学で学んだフランス文学と、哲学や現代思想の知をふんだんに、しかし決
して専門的な術語に頼ることなく、縦横に活かしていることにある。それは著
者の言葉の選び方と、想像力を駆使した「例え」の豊かさに顕著に現れている。
また加えて、この本は註釈に掲げられたさまざまな領域の音楽家、理論・思想
家、作家と作品に対して、首尾よくコメントがつけられており、いずれも手に
とってみたいと思わせるものばかりである。こうしたことから、『サウンド・
エシックス』で問題にされている「音楽」に対するすべての論考は、「文学」
の問題として読むことが可能である、といえる。実際、本書中の「音楽」とい
う部分を「文学」と読みかえて、そのまま読解できる場面がほとんどだ。
この本の最終章は、タイトルの一部にも使われているエシックス、つまり「
音楽と倫理」の問題を取り上げている。ここでいう「倫理(エシックス)」と
は、小沼氏によれば、決して「音楽はこうあるべきだ」というものではなく、
「音楽とは何か」という枠組みそのもの問うことだという。そして、「複数の
問い」かけによって、音楽はズラされ、移動していくものだと述べている。続
けて著者は、「エシックス」の運動性についてこう述べる。「複数の問いを種
子のように蒔いて、その種子が芽を出して生育したところこそが、その問いの
広がりの場なのです。だからこそその場は総体として成り立ちながら、時々刻
々と変化し、位置を変え、増殖していくはずでしょう」(271)。
こうした「場」こそ小沼氏のいう「音楽」であり、言い換えれば、他者との
交通・対話の出来る「場」としての「音楽」なのだ。そして「音楽」に対する
「評論」であるこの『サウンド・エシックス』を、ひとつの書かれたテクスト
として捉えるならば、このテクスト自体が、読者に向けられた対話の呼びかけ
であり、そして読者から応答され、書かれる「場」としてある、といっていい
と思う。
最後に、ひとこと添えるとすれば、この本の「あとがき」について。それは
見開き一頁のもので、引用と謝辞を除くならば、小沼氏の文章は僅か数行にし
か過ぎない。しかし、今まで読んだ本のなかで、最もすばらしい「あとがき」
のひとつだった(是非、手にとってみてください)。久しぶりにスリリングな
本を読むことができ、読後は高揚感に包まれたまま本を閉じることができた。
それほど、すばらしい本に巡り合うことができたことを自ら祝うとともに、小
沼氏の今後の活躍も見ていきたい、と思う。
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┃7┃書評:阿部嘉昭『精解サブカルチャー講義』(河出書房、2001年)
┃ ┃ /D.H,どろんぱ
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あるジャンルが、「教養」として認知される時、それは、そのジャンルの生
命がすでに途絶えてしまったことの証であるのかもしれない。そのジャンルの
歴史は、「教養」として栄枯盛衰を語ることにほかならない。
すでに我々は映画、テレビはもとより、漫画が、ロックが、歌謡曲が、大学
の中で学ばなければならないものとして認知されてきたことを目にしてきた。
たとえば、NHK−BSの人気番組『BS漫画夜話』では、漫画の古典作品が、精
読と、漫画史におけるその作品の位置を確認するという、あまりに古典的なま
での伝統的な「読み方を教える」手続きを踏むことで成り立っている。
そして、漫画やアニメの実作講座も担当する大塚英志氏らによる『教養とし
ての漫画・アニメ』(講談社現代新書、2001年)が示すように、実作を志すは
ずの者ですら、漫画・アニメの「教養」が著しく欠如している事実が歎かれて
久しい。
漫画学科を置く大学はもとより、全国的に各大学の文学部、教養学部を中心
に日本の大衆文化、サブ・カルチャーの教養、基礎知識を、大学で教えるべき
項目として認められつつある。日本マンガ学会もいよいよ軌道したばかりだ。
もちろん、日本のますます大衆化する大学の設置意義が、古典から現代まで
の個々の事象を通じて、「現代をいかに生きるべきか」という答えを見出すこ
とにあるならば、メディアの発展と軌を一にする、日本のサブカルチャーの読
解、歴史を学ぶことは恰好の素材として有益であるだろう。
文学部(教養学部)にかぎるならば、文学作品が学問・教養として認知され
てきた過程をたどることで、「かつてサブ・カルチャーであったはずの文学作
品」が、いかにして正統的な学問としてみとめられてきたか、という変遷がわ
かる。とりわけ文学の中で後発の小説は、18世紀に成立した歴史の浅いジャン
ルにすぎず、長らく文学研究の主流は、詩・演劇であり続けたわけだ。だから
こそ「小説とは何か?」を盛んに問い直し続けることで、学問としての基盤を
築き上げる必要があった。
日本ではまだまだ浸透していないが、フィルム・スタディーズ(映画学)は、
学問として成立するまでに、「そもそも映画とは何か?」をフィルム、映写機
の原理から説き起こし、果ては古代の壁画にまでその起源を求めすらする。
そして当然、難解な文学作品、映画作品が先に評価され、大衆小説、エンタ
テインメント映画の研究は今、まだ研究がはじまったばかりだ。
日本の漫画、アニメーションは、すでによく知られているように、独自の発
展を遂げ、あくまで政治風刺か、子供のための娯楽でしかない、西洋の漫画の
概念とはまったく異なる歴史を持つ。
ハリウッドに代表されるスペクタクル映画に影響を受け、コマ割りからスト
ーリー展開の研究に勤しんだ手塚治虫の世代から、あるいは、日本の純文学、
私小説の流れを色濃く引く、観念的な漫画作品群、あるいは、ギャグ、劇画、
ストーリー、不条理、子供向け、少女漫画、レディースコミック、学習漫画…
…と、あらゆるジャンルの可能性が漫画において試されてきた。
そして、学術的にも、四方田犬彦氏による『漫画原論』(94)では、そもそも
漫画というのはどのようなジャンルであるのか、をコマとは何か、フキダシ、
ネームとは何か、という根源的なところから探求している。
その一方で、「子供は漫画しか読まない」と言われたかつての時代がすでに
遠い過去になってしまったように、子供の漫画離れが急速に進んでいる。大学
のキャンパスで、漫画雑誌を手にもつ学生の姿が近年、ほとんど目につかなく
なっているという。
本書『精解サブカルチャー講義』は、そういう時代の大学で、実際に講義を
行った際の記録であり、立教大学での講演録に基づいている。
すでに同種の成果として、浅羽通明氏の『野望としての教養』(2000)などが
あるが、最近では「携帯電話」論(『「携帯電話(モバイル)的人間」とは何
か 別冊宝島』2001)など、文化論を中心に活躍する浅羽氏に対して、本書の
著者、阿部嘉昭氏は北野武映画論、アダルトビデオ論、(『AV原論』、98)
などの著書を持つ評論活動が本業であり、本書においても、映像、漫画、ロッ
ク、アダルトビデオといった素材を通して、日本の現代と、過ぎ去った時代
(60・70・80年代)を追憶する。
大学内で、やまだないと『エロマラ』から、バクシーシ山下の企画物AV作
品、「ピンク四天王」の一人、瀬々敬久のピンク映画までを、素材として取り
上げることに対する反発は未だ根強いだろう。実際に、不快感を感じる学生も
決して少なくはあるまい。
アメリカの大学では、学生が大学事務所に、不快感を訴えて抗議し、大学教
員の職を奪うことがないように、年間講義要項や最初のガイダンスで、授業の
趣旨を説明し、異議のある学生の聴講を断ることで自衛するようだ。
曰く、文学・芸術作品とは、人間の暗部をも描く分野である、と。
カルチャー・ショックとなるような、トラウマ体験を与えることまでも、大
学の使命になりつつあるらしい。
本書『精解サブカルチャー講義』は、抽象的な思考を得意とする阿部氏らし
く、サブカルチャーの通史が得られるものではないし、浅羽氏のように「わか
りやすい事象を、わかりやすく語る」ことで現代を理解、分析するというもの
でもない。
たとえば、アダルトビデオにおける映像、視線とは何か、という主題を通し
て、ラカン、スラヴォイ・ジジェク、ロラン・バルト、クリステヴァ……と、
現代思想の成果を踏まえながら、よりもやもやとした、それでいて何らかの真
理に到達すべく、探求を深めていく。
学生にとっては、授業中にわかりやすい結論を授けられるわけではないから、
釈然としないまま、帰路につき、不完全燃焼を余儀なくされたかもしれない。
しかし、本書を通して、「時代の捉え方」のヒントをわずかでも得られるの
ではないか。それはいうまでもなく、ジャンルの通史を身につけるよりも応用
の効くツールになるだろう。
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┃8┃書評:レベッカ・レイ『ピュア』(グローブ・プレス、1998年)
┃ ┃ /がちゃぴん
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本書『ピュア』は1980年ロンドン生まれのレベッカ・レイが、16歳の時に執
筆を志して学校を退学し、18歳で発表した小説作品である。イギリスでの発表
時のタイトルは、13歳から14歳になろうとする少女の物語にふさわしく思春期
という「特別な年齢」(Certain Age)というものであった。これは今なお青
春期をめぐる小説として読み継がれているJ.D.サリンジャーの『ライ麦畑でつ
かまえて』(1951)が、日本ではじめて翻訳された際に『危険な年齢』(橋本福
夫訳)という邦題を付されたのと同じ狙いによるものであろう。アメリカ版で
は、『ピュア』というタイトルに改題されて紹介され、大変な話題を集めた。
それぞれの評者がそれぞれの読書体験によって、詩人のシルヴィア・プラス
『ベル・ジャー』から、ナボコフの『ロリータ』まで比較しながら本書の物語
の紹介がなされているが、名前を持たない一人称の語りによる、少女の物語と
しては内田春菊の初期作品(『物陰に足拍子』『幻想の普通少女』など)と共
鳴するものがあると言えるのではないか。
14歳になる女の子がはじめての恋をして、そして同時にイノセンス(無垢)
な状態に終わりを告げる物語、と内容紹介にあるとおり、青春物語として何度
もくりかえし語り継がれたテーマであるけれども、レベッカ・レイの筆致は淡
々とそれでいて儚い少女の心の動きを見事にとらえることに成功している。27
歳の男性に翻弄されたり、両親や周囲のクラスメートたちとうまく距離がとれ
ないままの、心がすれ違うさまを・・・何度も書かれてきたことなのかもしれ
ないが、400ページを超える本書には青春物語のすべてのエッセンスが込め
られている。
日本ではまだ残念ながら翻訳がなされていないが、ほどなくこのジャンルの
古典として読み継がれることは必至であろう。我々がいつからか気がつかない
うちに忘れてしまった10代の感慨がここにはすべて示されている。もちろん、
男の子は女の子たちほどには大人ではなかったはずだけれども、ぼくらが当時
はまったく気がつきもしなかった10代の女の子の想いを追体験することもでき
る。
18歳の著者による、14歳の主人公の性描写が、センセーショナルな話題を集
めたが、アメリカ版のタイトルにもある通り、「ピュア」な気持ちでいるがた
めに、「ピュア」であることを終えつつあるという微妙で独特な主人公の気持
ちがとても丁寧に描かれている。あまつさえポルノグラフィティのカテゴリー
に分類されることすらあるようだが、痛々しいくらいに、もろくて繊細な主人
公の「気持ち」にぼくらは心を打たれるだろう。
断章形式で綴られるそれぞれのエピソードはちょっとしたことが大きな悩み
になるこの年代ならではで、効果をあげているように映るけれども、どうやら
その点を求心力にか欠ける構成上の不備と見る向きもあるようだ。
だがこの物語が16歳から18歳の間にかけて書かれた事実は大きい。レベッカ
・レイ自身が後にこの作品と、この作品を書いていた彼女自身の10代をふり返
る時、その成果が新たな別の物語としてもたらされることを期待している。今、
10代を過ごしている読者に、これから思春期を迎えつつある読者に(個人的な
読書経験として17歳前後の物語にぼくはその年齢を迎える前から憧れていた)、
そしてかつて10代であった、要はすべての読者に、等しく力強く響くものが本
書にはあると思う。
物語の最終場面では、母親が肩をふるわせて静かに泣き、父親も声を涙を流
す。主人公も傷つきながら、両親に謝る悲しい結末で幕を閉じる。
だが最後の一行、「でも私は目を逸らさない」(But I didn't look away.)
(404頁)は力強いメッセージになっているのではないか。いつからか少女から
大人になっていく。それは彼女にとって早過ぎる選択であったかもしれないが、
もう後戻りはできない。アメリカ版のタイトル『ピュア』はだからこそ本書に
ふさわしいと言えるだろう。
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┃9┃編集後記…… がちゃぴん × どろんぱ × コヨーテ
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(コ)やれやれ、またか。編集後記はおれは休んでいてもいいだろ。
(D)ま、そうなんですけどね。でも「イヤなルームメートの追い出し方」をネ
ットで調べるヒマがあったら、原稿書いてくださいよ。
(コ)ところでおかげさまで【UNA】のホームページもどうやらたくさんの方に
見ていただいているらしいんだよね。
(D)え? だってあのページって、単にバックナンバーが収められているだけ
でしょ。
(コ)そうなんだよね。いろいろ双方向性を打ち出そうなどという案もあるん
だけど手つかずで、ウェブ作成者としても面目ない。
(D)あのホームページでは何ら新しい情報も得られないのに、ありがたいとい
うか不思議な話もあるものですね。我々ですら全然あのページは見てない。
(一同)わはははは。
(G)何ら有益な情報も得られず、あらゆる知的好奇心も充たされないですよね。
ウェブの意味もあるのかないのか? 子供でももう少し工夫しそうなもんです
よね。
(一同)わはははは。
(コ)ころすよ・・・。そんなこともあって、特にメールマガジンの方でははみ
出してしまうような分野、たとえばもう少し学術的な側面などを、ウェブマガ
ジンの方でくみ上げていけたらと思ってるんだけど・・・。
(一同)わはははは。
(D)たかだか月数回のメールマガジンの原稿もままならないのに、ウェブでも
新しいことを立ち上げようというのですか?
(G)なるほど。それはおもしろい。アメリカン・ジョークが冴えわたってます
ね。
(一同)わはははは。
(コ)あまり調子に乗ってるところすぞ。いくらでも寝首をかける状態にあるこ
とを片時も忘れるなよ。
(G)というわけでようやくサンディエゴ発の第一信をお届けできます。
(コ)長すぎるぞ。いくらなんでも間隔が。前回、夏休みだから、発行ペースを
倍化すると言ったばかりだろ。もはや「オオカミ少年」状態で誰も相手にして
くれなくなるぞ。
(G)すでに相手にしてもらってはいないでしょうね。代わりに、一部媒体で、
同じ12号を何通も送り届けるという到底、許されない誤配が報告されています。
まったく我々としたことがお恥ずかしいかぎりで。
(コ)何!?
(G)あなたが急かすので一秒でも早く配信しようと、どうやら「配信ボタン」
を連打してしまっていたようで、いやはや、ご迷惑をおかけした皆様にお詫び
のしようもございません。
(コ)本当か!? 「お詫びのしようもない」で済まさずにしっかりと謝れよ。
それはいくらなんでもひどい。通常号だけでも、分量的に「大迷惑」なのに、
同じ文面を4通も5通も送り届けたのか? 信じられん。
(D)そういうあなたも謝ってくださいよ。「穢れ」を押しつけて自分だけイノ
センス(無垢な状態)を保とうとしてもダメです。
(コ)おまえもだ。
(G)しかし、「発行ペース倍増」と銘打ってまさか同じ文面がじゃかじゃか届く
とは!? 何という偶然のいたずら。
(D)その一方で、最新号はいつまでたっても届かない・・・。アーメン。
(コ)だから謝れって言ってるだろ!
(G)あなた何かうしろめたいことがあるのですか?
(コ)いや、特にないけど。
(D)本当ですか? ないわけはないでしょ。
(G)生きているだけで私があなたならうしろめたいはずです。
(コ)何でおまえらにそこまで言われねばならんのだ? それに意味のない問答
を重ねてこれ以上無駄な行数を増やすな!
(D)オオカミ少年、の話は、結局、「オオカミが来たぞ」という少年の話を信
じなかったばかりに村人たちがオオカミに食べられてしまうわけですから。
(コ)何? ひどい曲解だ。そんなわけねえだろ。食べられるのは少年だぞ。で
なければ教訓がなくなってしまう。
(D)え? そうでしたっけ?
(コ)いつもウソばかり言っていたから、いざという時に助けてもらえなくなる、
という話だろ?
(D)でもそうすると、「いつもウソばかり言っていた少年だから食べられても
いい」という村人の心性もどうかと思いますが。
(G)まあA型社会というのは概してそういうのものですよ。結局、自分たちと
は異なる異分子を排除するシステムですから。いいんです。異分子が食べられ
ても、煮て焼かれても、それでこそ「村社会」での彼らの溜飲がさがるのです
よ。
(コ)いいかげん、自分たちの疎外感をインチキな血液型論でくくるのはよせよ。
(D)ところで、創作『カリフォルニア・デイ・ドリーム』はどうなったのです
か?
(コ)そんな半年も前の伏線を誰が覚えてるんだよ。
(G)まあぼちぼちやりますよ。あるいはすでにはじまっているとも言えます。
あの時点では、まさか本当にコヨさんのいるサンディエゴに我々が渡るとは
よもや思いもしなかったですし。
(D)初期設定では、サンディエゴで音信がぱったり途絶えたコヨさんの安否を
探りに、我々が現地を訪れるという話でしたね。
(コ)そうだったか?
(D)あなたまだ元気ですね。
(コ)おかげさまでぴんぴんしてるよ。おまえらのせいで慢性的な寝不足だが。
(D)確かに、最近は根源的な欲求しか聞きませんね。「トイレはどこだ?」
「ハラ減った」「眠い」「とりあえずやらせろ」・・・。
(コ)まあね。
(G)いっそのこと、今からでも遅くはないのでコヨさんを殺りますか? 芸術
至上主義の心意気です。そこから新たな物語がはじまるのです。
(D)日本には古来から、「ハラキリ」の伝統もありますし、不祥事があった場
合は年長者がお詫びを行為で示さないと。
(コ)何!? どこまで恩を仇で返せば気がすむんだ?
(D)時代はノン・フィクションですからね。
(コ)やらせだろ。
(D)アメリカのテレビでもそうですが、巧みな演出が作品を支えるのですよ。
(G)とりあえず、コヨさんを縛りましょう。縛り方に注文はありますか?
(コ)おれもSMマニアとして、自分のスタイルは大事にしたいからな。無様
なのはイヤだ。せめて「亀甲縛り」がいい。サルグツワも選ばせてくれ。
(G)『逆噴射家族』で工藤夕貴が縛られていた形ですね。
(D)口ばっかりでなく、早くあなたの「SM原論」も活字にしてくださいよ。
(G)鼻も吊りますか?
(コ)当たり前だ。やるからには完璧を期したい。
(D)儀式のようなものですね。
(G)そういえばそろそろコヨさんも誕生日ですからね。通過儀礼ですよ。
(コ)おれの貴重な青春がまたしても無駄に喪われていく・・・。
(G)というわけで次回の『UNA』では、コヨーテさん誕生日企画と銘打ちまし
て、ハウリング・コヨーテ特集です。生い立ちからその人となりを赤裸々に
分析します。
(コ)ちょっと待て。おれは聞いてないぞ。
(G)我々も今はじめて聞きました。私も喋りながら驚いたくらいです。
(コ)そもそもおれの誕生日はだな、とっくに、8月の・・・ぐむむむ。
(D)では、来るべき、コヨーテさんのお誕生日を皆さんと共に祝いましょう。
(G)SM好きのコヨさんに合わせて赤いロウソクでお迎えします。お楽しみに。
(D)コヨさんも手を振ってますね。
(G)単にもがいているだけでは?
(D)悦んでいるんですよ。
(G)それでは次回もお楽しみに。次回からロードランナーさんの新連載もいよ
いよはじまります。
(D)え!? 今回からはじまるはずでは?
(G)私も、まさかこの期におよんで「新連載予告」のみが送られてくるとは思
いもしませんでした。
(D)だって、13号の後半の配信が遅れたのって、ロードランナー氏の原稿待ち
でしょ?
(ロ)おれのせいにするな。
(D)おい。口が開いてるじゃないか。ちゃんと封じておけよ。
(G)いや。コヨさんの声じゃないですよ。
(コ)モゴモゴ。
(D)では誰の声だ?
(G)さあ?
(D)そもそもロードランナーって誰?
(G)私も会ったことないんですよ。いつも締切の確認をするくらいで。
(D)では、次号で、その実態が明らかになるんだね?
(G)さあ?
(D)なんだよ、頼りない仕切りだな。
(G)私の【UNA】での権限なんてそんなものですよ。
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